――カラン、カランと大気を震わせて鐘が鳴る。
響け、幸せの福音を空へ。あの人へと届け、傍らの誰かへと伝え給え。
今ある幸福を噛締めて、祈り願えよ。常しえに、長しえに、永久に。
恋に恋せよ花も恥らう乙女たち。
焦がれて愛し、抱いて抱きしめて甘く優しく囁いて。
悪徳を孕む私には、縁遠い話。
そもそも、もう恋などまっぴらなのだけれど、それを眺めるのはまた、別の話。
「……天主よ、天主。何ゆえに、彼らは恋をするのでしょう?」
街角にある小さな喫茶店。
暖かな日差しが落ちるオープンテラスで茶を楽しみながら、語りかける。
言葉を口にして伝えるのは他の誰でもない。身体の裡に融ける愛すべき隣人、デモンにだ。
『恋を知らぬ訳ではないが、それを人ではない私にそれを問うのは大きな間違いだよ、愛娘よ。
一応答えては見せようが、他ならぬお前が良く知っている事ではないだろうか、テレジア?』
「……いえ、その様なことは、決して」
何事か答えを返されたらしい。
紅茶の水面に映る伏せられた赤い瞳は、風に凪ぐ様に揺れている。
『自身に対しての疑問という限定ではあるものの、ある者曰く、問いかけとは確認作業なのだ、と私は知っている。何故なら問いかける本人から生まれる疑問は、何よりも己が理解しているからだよ。解らない、知らないという者は感情的あるいは生理的な答えを答えだと認めたくが無い為の忘却逃避。君の場合もそうだね。だがあえて問う』
『――失恋がそんなに忘れられないかね?』
「……あれをそうと、仮に認めたとして。忘れられそうにありませんね、こんな傷を……負わされたのですから」
言葉の端には幾許かの自嘲と厭きれ、そして、添えられる微笑み。
悪くはなかった、と暗に語っているようなものだった。満ち足りて怨嗟が溢れるような美しい仮面の微笑。
「……おかげであなたと出会えたのです、天主。わたしの愛しいデモン。忘れられよう筈もありません」
『はは、ははははは…っ。いや、すまないね。思い出したくないだろうに、忘れ去りたいだろうに。それでも祝福(呪い)が幸福であるというのか君は。ふふ、んふふふ…。ああ、嬉しいよ愉しいよ面映く面白い。実に愛しいよ、我が愛児』
笑い声が聞こえてきそうな、静かな笑みは目の前に並ぶ菓子で更に喜色を深める。
彼女にのみ聞こえる悪魔の囁きは、紅茶に落ちる角砂糖。少女を満たし飽和させる甘い息吹(祝福)。
「……そろそろ、ですか。…天主、わかりますか?」
『ああ、もうすぐ通り過ぎるよ。お前に気がつかず、目の前を』
意味深な問いかけ。まるで恋人を待つような、熱い視線を行きかう人々の群れへと向ける少女。
ふと、目に留まる。天主の言葉通り、と紅茶を飲み干して。
「…………今日も、姿を見せてはいけないのですか?」
『いけないよ。邂逅。とりわけ、再会は美しく飾り立てねばならんのだよ。まだ機は熟していないし、彼もそうだ』
「……その為に遠回りをさせているのですか、天主。……もう気がついた誰かがこの秘め事を伝えていそうな…。いえ、それはそれで面白いのではないですか、天主よ?」
『ハプニングとしては面白いだろう。だが、然しだよ。これは劇、華々しい舞台なのだよ。互いアドリブは得意でなかろう』
「……生の感情は美しいと、仰せでは?」
『揚げ足は止めたまえ、愛娘。美々しさが損なわれてしまうよ。さあ…追い給え。かくれんぼは得意だろう?』
「鬼ごっこの…間違いよ、デモン」
苦笑。
懐かしい気持ちと、郷愁に駆られて。
幼子の遊びは大人になれば面映いものではあるけれど、それもまた良し。
二人だけの鬼ごっこでは淋しいから、他の誰かも巻き込んでしまいましょう。
「――もうすぐ貴方を終わらせてあげますから、もう少しだけ待っていて…■■■」
漆黒のヴェールを躍らせて、動く迷路の街道を行く。
今ようやく終わりを告げるプレリュードが始まる。
ほら――福音の鐘は空にまだ、響いてる。
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